九州各地を転々としていた芙美子の一家、当時、義父の沢井喜三郎、母キクとの三人は、大正四年(一九一五)のひと夏を直方の町で暮らした。このとき芙美子十二歳(芙美子の生年月については複数の説がある )。
住まいは「大正町の馬屋と云ふ木賃宿」の二階で、両親は芙美子を宿に置き、荷車を押して行商に出かけていった。
「私は三銭の小遣いを兵児帯(へこおび)に巻いて、町に出た」
町は以前に住んだ門司のように活気がある町でもなく、長崎のように美しくもなかった。佐世保のように女が美しくもなく「明けても暮れても、どす黒い空」がひろがっていた。
「骸炭(がいたん:石炭を燃やした灰 )のザクザクした道をはさんで、煤けた軒が不透明なあくびをして」おり、「砂で漉(こ)した鉄分の多い水で、舌がよれるようであった」
『放浪記』に措かれた直方は、猥雑で混沌とした町だ。陰鬱で荒涼とした印象さえうけるが、現実の町は活気にあふれていた。たしかに地域の基幹産業の炭鉱は大正三年から一時的に不況で、石炭の採掘量も一時的に下落していたが、これも芙美子一家が来た年の後半期には回復している。明治二十四年に若松港と筑豊炭田をむすぶ「筑豊興業鉄道」が開通して以来、直方は石炭輸送の基地として躍進をつづけていた。当時の経済紙の記事には、直方市街地の発展いちじるしいことは「一日平均一戸の増加」であり、「料理屋にランプのつかぬ部屋なく、芸妓にお茶ヒクものなし」と報じている。さらに林立する大煙突は炭鉱の、小煙突は鉄工所のものであり、これらの煤煙が市中をおおっている、とある。多少の誇張は割り引くとしても、この時代の雰囲気を伝えるものだ (『門司新報』明治三十年八月十二日付 )。『放浪記』が描く直方は、かならずしも当時の町そのままではない。
今も昔も、直方の市街地は遠賀川にそって南北に長くのびている。町のおこりは、元和九年 (一六二三)に分知された福岡藩の支藩、東蓮寺藩四万石 (のち五万石)の城下町である。寛永三年(一六二六)には町なかの高台に藩主館が完成した (これについては、本特集の別項「福岡藩の支藩─東蓮寺藩の城下町・直方」を参照されたい )。武家屋敷の殿町を中心に、南北に町屋を配して古町・新町とよんだ。
明治四十三年 (一九一〇)に町の北端ちかく、現在の位置に直方駅ができると、一帯がひらけて明治町となり、明治四十一年から続いていた遠賀川改修工事が竣工すると、これまで低湿地だった駅の北東部が宅地化した。また、市の北部にある三菱新入炭鉱の労働者を対象として新開地の須崎・明神町が盛況となり、明神町にはこのころできた花街もあった。そういえば、馬屋の住人には「親指のない淫売婦」もいた。
大正二年は三菱新入炭鉱の協力で、直方から植木町に通じる道路が開通、大正町となった。位置関係でいえば、せまい旧道にそって須崎・明神町が南北につながり、その東側に平行して大正町の大通りがあったことになる。
一家の生活の拠点となった「大正町の馬屋」だが、比定できる宿屋と位置については二説がある。
ひとつは須崎町7-21にあり、語呂がにた「梅屋」で、ながくここが「馬屋」のモデルと考えられてきた。これに対し、直方市史編さんにたずさわった行実正利氏は、旧明神町にあった「入口屋」に比定している。ちなみに、神正・大正の両町は、戦後地名統合して神正町となった。
行実氏によれば、「入口屋」は旧明神町にあった木賃宿で、主人は馬車引きを兼業していた。宿の入口横に馬をつなぐ場所があり、馬の姿が道筋からもよく見えたため「馬屋」で通るようになった、という。現在の神正町9-47である。現地には当時の建物も残っておらず決定の決め手はないが、両者はおなじ通りに七○メートルほどの距離をおいた位置にある。馬屋がいずれの位置であったとしても、芙美子が記す「大正町」でないことは確かである。
八月になると「ほうろく(培熔)のやうに暑い直方の町角に、カチュウシャの絵看板が立つやうになった」
大正三年 (一九一四)、東京芸術座公演「復活」の劇中歌として松井須磨子が歌った「カチューシャの唄」は、レコード化されて爆発的な流行となった。翌年には日活が映画化し、これも大ヒットした。芙美子がみた「カチュウシャの絵看板」は、この映画の看板をさすようだ。
釜の底のやうな直方の町に
可愛やカチューシャの唄が流行って来た
炭鉱の坑夫達や
トロッコを押す女房連まで
可憐な此唄を愛していた
(詩集『蒼馬を見たり』昭和4)
「私は活動 (=活動写真)を見て来ると、非常にロマンチックになってしまった。浮かれ節 (=浪花節)より他芝居に連れて行ってもらへなかった私がたった一人で隠れて、カチュウシャの活動を見に行ったのである」
当時、須崎町をぬけて右にまがると、正面には明治四十三年に新築移設された直方駅があり、手前右側には活動写真館「開月館」があった。大正三年に落成したばかりの洋風二階建て建築で、駅前の新開地に偉容を誇っていた。
映画をみては木賃宿で「髪を二つに分けてカチューシャの髪を結んでみた」芙美子だったが、このころ「小学校へ行くかわりに須崎町の粟おこし工場に、日給二十三銭で」一ヶ月ほど通い、その後扇子を売り歩き、涼しくなると「一つ一銭のアンパンを売り歩くようになった」という。今日、芙美子忌でアンパンがふるまわれるゆえんでもある。「小学校を蹴とばしてしまった」十二歳の少女は「遊ばせてはモッタイナイ年頃」になっていた。
ここにいたって、『放浪記』が描くいくつかが、事実とはことなることに気づく。
たとえば、秋口に芙美子の母は多賀神社そばでバナナを売っていたとある。「無数に駅からなだれてくる」坑夫の群のおかげでよく売れたというが、当時、坑夫たちは駅まで汽車通勤をしていたのだろうか。駅から徒歩で多賀神社そばを通って通う炭鉱だが、これも一定規模のものは周辺に見あたらない。当時坑夫が通ったのはおもに三菱新入炭鉱であり、これには直方の町から須崎・明神町を通過する道すじである。多賀神社とは反対方向にあたる。明神町に花街ができたのも、彼らの需要に応じたものだった。
多賀神社についても「多賀さんの祭りには、きまって雨が降る」とあるが、これは春祭のジンクスであって、秋ではない。芙美子は実体験ではなく、誰かから聞いた知識をここに挿入したようだ。
木賃宿「馬屋」は実在したらしいが、その場所は大正町でなかった。須崎・明神町は江戸時代以来の旧道で、細い道ぞいに軒の低い店がならんでいた。一方、大正町はその名のとおり、あらたに開かれた大通りであった。宿のロケーションとして、芙美子に多少の作為がなかったとはいえない。
これとよく似た話は、 一家の尾道転居のいきさつにもみられる .大正五年 (一九一六)に一家はながい行商のあと、尾道に定着したが、このときは車窓から
「きれいな町じゃ」
「おりてみんかやのう」
と、思いつき同然で下車したと書いている。 (「風琴と魚の町」 )
しかし芙美子の尾道時代にくわしい清水英子氏は、これは山陽本線下りならありうるが、下関方面から来たばあい、「きれいな町じゃ」など観察している間はないという。「おりてみんかやのう」は芙美子の創作で、一家は計画的に九州を引き揚げ、旅先で知り合った尾道の商人大林亀助のつてで尾道に落ち着いたのでは、と推測している。 (『林芙美子・ゆきゆきて「放浪記」』平成10)
このように見てくれば、芙美子のいう「須崎町の粟おこし工場に、日給二十三銭で」通ったというのも、あらためて疑わしくなる。新町の藤田飴屋で仕入れ、ちかくの遊郭で朝鮮飴を売ったことを、のちにアンパン売りとからめて改変したのではうという気がするのだが 、確証がつかめない。しかし、藤田飴屋の「粟おこし」と須崎町の「粟おこし工場」の符合は本当に偶然だろうか。
その後の大正八年(一九一九)市立尾道高等女学校二年生 (十六歳)になった芙美子はふたたび直方をたずねている。女学校の同級生津山カツ母子との三人で旅行したとき、途中ふたりと別れて直方に行ったとの証言がある。
このとき尾道高女時代の親友木曽季野にあてた葉書には、海水浴姿のふたりの少女 (津山と芙美子か )の絵とともに「八月七日、福岡県直方に於て」とある。
このとき、芙美子は実父の宮田麻太郎に会いに行ったと考えられている。麻太郎は芙美子の母キクと別れたときは若松で商いをしていたが、この当時は直方に住んでいたらしく、大正十四年の弟隆二の分家届けも直方で提出している。また麻太郎は芙美子に経済的な援助をしていたようで、彼女が当時の高等教育に属する女学校に通えたのも、これによるとの証言もある (中原雅夫『林芙美子と下関』昭和42)
これらをふまえて、「この十六歳ときの直方行きが、芙美子にこの町での記憶をよみがえらせ、「放浪記以前」で直方時代が精彩をもって綴られる機縁となったのではあるまいか」という足立巻一氏の指摘は示唆に富んいる。
直方は芙美子にとって、他の多くの一過性の町とはことなり、重層的な思い出がある特別な場所ではなかったろうか。
以下は蛇足になるが、
明治の歴史家・久米邦武は、文学作品を安易に歴史研究につかうことを憂慮し、「太平記は史学に益なし」と警鐘を鳴らしている。中世の戟乱を措いた太平記はたしかにその時代を活写しているが、あくまでも文学作品である。いかに歴史的なことを語っていようとも、「歴史そのまま」でないのは自明なことだ。
林芙美子の『放浪記』についても、情況はおなじである。芙美子は自身が放浪した各地での体験をもとにひとつの世界を構築し、これを読者に示した。したがって登場する人や場所は '実在の地名を冠していても、あくまで作品中の人物であり場所なのだ。そのことを踏まえて、フィクションの向こう側に歴史の実態を求めるのもひとつの読み方ではあるのだが。