2013年11月30日開催 NSFF 福岡県直方市須崎町映画祭

林芙美子が創作と映画に出逢ったまち 福岡県直方市須崎町商店街

『放浪記』の虚実 (西日本文化 2009年10月号掲載)

「林芙美子の直方」をたどる

牛嶋英俊

 女優の森光子が主演する舞台劇『放浪記』が、昭和三十六年 (一九六二)の初演からかぞえて今年五月に上演二〇〇〇回を越えたという。その間、四十八年。
  原作者の林芙美子は明治三十六年 (一九〇三)の生まれ。昭和二十六年(一九五一)に四十八歳で没しているから、彼女が生きたおなじ歳月にわたって、その生涯が舞台で演じられたことになる。
  『放浪記』は、遠賀川流域とりわけその中流に位置する直方市周辺では「ご当地」の物語である。冒頭部分の原題が「九州炭坑街放浪記」とあるように、ふるさとを持たない宿命的な放浪者という主人公の少女時代が、筑豊の炭鉱街を背景に鮮やかに措かれている。
  その縁もあって、今日、JR直方駅近くの須崎町公園と山部西徳寺境内の二カ所には林芙美子文学碑が建つ。前者は昭和五十七年、地元有志による建立で、「私は古里を持たない。旅が古里であった」という『放浪記』の一節が刻まれている。
  以来、芙美子の命日にあたる六月二十二日には、、直方文化連盟による「林芙美子忌」が催されている。当日は文学碑への献花にはじまり、講演会・句会など、各種の催しがおこなわれる。平成二十年には北九州市立文学館副館長で『林芙美子巴里の恋』などの著者・今川英子氏の公演があった。また、芙美子が直方在住のころ売って歩いたと『放浪記』にある「アンパン」がふるまわれ、参加者が当時をしのぶよすがとなっている。
  文学碑建立の要望は昭和四十年ころから当時の直方市史編さん委員の間から出ていたが、実現までには曲折があった。当初、碑面には直方とかかわり深い『放浪記』の一節を刻もうとの案があった。これに対し、「直方の悪口を書いた文章を記念碑にするのはこまる」と市の関係者から異議が出て立ち消えになった、という (『月刊のおがた』49 昭和51)。その後も何度か計画と挫折をくりかえした後の建立というから、関係者の熱意には並々ならぬものがある。
  一方、地元ではいまだに「芙美子は『放浪記』で直方の悪口を書いた」という声を聞くことがある。たしかに芙美子が措 -直方は「明けても暮れても、どす黒い空」で「煤けた軒が不透明なあくびをして」いる町だった。「陽ざしの下を通る女は、汚れた腰巻きと、袖のない襦袢(じゅばん)きりである」との文字面だけからみれば、たしかにそうかも知れない。
  ここで留意しておきたいのは、『放浪記』はあくまでも文学作品として発表されたものであって、ドキュメンタリーでも自分史でもないということだ。自己の体験をもとにしていても、そこには文学的な脚色や再構成がなされている。たとえば昭和十四年 (一九三九)の作品『一人の生涯』では、芙美子は『放浪記』とはまったくことなる物語を展開しており、宮田俊行氏は「『放浪記』を事実と信じ込んでしまう読者をあざ笑うかのようである」という (『林芙美子『花のいのち』の謎』かごしま人物叢書2 平成17)
  世にいう「直方の悪口」うんぬんは、小説をそのまま事実と読んだことによる、素朴な誤解にすぎない。先入観なしに『放浪記』を通読すれば 'むしろ直方時代の記述が「文章も生動していて主題を凝縮し、全編のたくみな序曲となっている」のである (足立巻一「現代日本文学アルバム」 13 昭和49)。
  芙美子にとって「直方」とはどのような町であったのか。また芙美子の時代の直方とはどんな町であったのか。定めず持ちあげず、文学として措かれた大正期の直方を舞台とする『放浪記』をたどってみる。

『放浪記』の成立まで

 『放浪記』は芙美子の自伝的な文学作品とされているが、発表当初からおなじ標題と構成だったのではない。現在の形にいたるまでには、構成の変更、字句の差しかえなど、さまざまな変遷があったことが知られている。
  成立までの大まかな経過を見ると、最初は昭和三年十月に長谷川時雨が主宰する『女人芸術』一巻四号に「秋が来たんだ -放浪記 -」の標題で発表された。その後、昭和五年の三巻十号まで、中断をはさんで二十回にわたり連載し、好評を得た。
  この間の昭和四年には雑誌『改造』の依頼で「九州炭坑街放浪記」を書いた。翌年にはこれを「放浪記以前 -序にかへて -」と改題して冒頭に置き、『女人芸術』連載の十四回分とあわせた『放浪記』の刊行となった。このとき割愛された分は、のちに『放浪記・第二部』に収録している。
発売された『放浪記』は、正続あわせて五十万部売れた。当時としては驚くほどの部数という。その理由として文芸評論家の中村光夫氏は「この特異な青春の書ほど昭和初年の青年男女を彼等の暗い生活環境で力づけた文学はない」という。
  『女人芸術』に連載を開始した昭和三年は、芥川龍之介が「唯ぽんやりとした不安」で自殺し、一方で治安維持法が強化された年でもある。五年にはウォール街から世界恐慌が始まった。大正デモクラシーが終息し、時代は急速に軍国色を強めていった。
  その一方で、モガ (モダン・ガール)と呼ばれ、これまでの因習にとらわれない女性も登場していた。このような世相のなかで、改造社の原稿を「浴衣一枚もなく、赤い水着を着て」書いていた貧しく無名の娘は、一気に女流作家の階段を駈けのぼっていった。
  その後、芙美子は『放浪記』に何度となく手を加え、内容と出版社を変えてきた。個々の内容については立ち入らないが、その間には、女流作家となった芙美子にとって知られたくない事実の改変や、隠蔽(いんペい)かと思われることもあるという。その跡をたんねんに追った森まゆみ氏は「原『放浪記』が一生に一度しか書けない進行形の〝青春の書″ならば、いま流布している『放浪記』は "成功者の自伝" である」と本質をついた指摘をしている (『林芙美子放浪記』平成17)。ここでは、森氏が原『放浪記』とよぶ改造社新鋭文学叢書『放浪記』および『続放浪記』によって見てゆことにしよう。

芙美子と直方の町

 九州各地を転々としていた芙美子の一家、当時、義父の沢井喜三郎、母キクとの三人は、大正四年(一九一五)のひと夏を直方の町で暮らした。このとき芙美子十二歳(芙美子の生年月については複数の説がある )。
  住まいは「大正町の馬屋と云ふ木賃宿」の二階で、両親は芙美子を宿に置き、荷車を押して行商に出かけていった。
「私は三銭の小遣いを兵児帯(へこおび)に巻いて、町に出た」
  町は以前に住んだ門司のように活気がある町でもなく、長崎のように美しくもなかった。佐世保のように女が美しくもなく「明けても暮れても、どす黒い空」がひろがっていた。
「骸炭(がいたん:石炭を燃やした灰 )のザクザクした道をはさんで、煤けた軒が不透明なあくびをして」おり、「砂で漉(こ)した鉄分の多い水で、舌がよれるようであった」
  『放浪記』に措かれた直方は、猥雑で混沌とした町だ。陰鬱で荒涼とした印象さえうけるが、現実の町は活気にあふれていた。たしかに地域の基幹産業の炭鉱は大正三年から一時的に不況で、石炭の採掘量も一時的に下落していたが、これも芙美子一家が来た年の後半期には回復している。明治二十四年に若松港と筑豊炭田をむすぶ「筑豊興業鉄道」が開通して以来、直方は石炭輸送の基地として躍進をつづけていた。当時の経済紙の記事には、直方市街地の発展いちじるしいことは「一日平均一戸の増加」であり、「料理屋にランプのつかぬ部屋なく、芸妓にお茶ヒクものなし」と報じている。さらに林立する大煙突は炭鉱の、小煙突は鉄工所のものであり、これらの煤煙が市中をおおっている、とある。多少の誇張は割り引くとしても、この時代の雰囲気を伝えるものだ (『門司新報』明治三十年八月十二日付 )。『放浪記』が描く直方は、かならずしも当時の町そのままではない。
 
 
  今も昔も、直方の市街地は遠賀川にそって南北に長くのびている。町のおこりは、元和九年 (一六二三)に分知された福岡藩の支藩、東蓮寺藩四万石 (のち五万石)の城下町である。寛永三年(一六二六)には町なかの高台に藩主館が完成した (これについては、本特集の別項「福岡藩の支藩─東蓮寺藩の城下町・直方」を参照されたい )。武家屋敷の殿町を中心に、南北に町屋を配して古町・新町とよんだ。
  明治四十三年 (一九一〇)に町の北端ちかく、現在の位置に直方駅ができると、一帯がひらけて明治町となり、明治四十一年から続いていた遠賀川改修工事が竣工すると、これまで低湿地だった駅の北東部が宅地化した。また、市の北部にある三菱新入炭鉱の労働者を対象として新開地の須崎・明神町が盛況となり、明神町にはこのころできた花街もあった。そういえば、馬屋の住人には「親指のない淫売婦」もいた。
  大正二年は三菱新入炭鉱の協力で、直方から植木町に通じる道路が開通、大正町となった。位置関係でいえば、せまい旧道にそって須崎・明神町が南北につながり、その東側に平行して大正町の大通りがあったことになる。
 
 
  一家の生活の拠点となった「大正町の馬屋」だが、比定できる宿屋と位置については二説がある。
  ひとつは須崎町7-21にあり、語呂がにた「梅屋」で、ながくここが「馬屋」のモデルと考えられてきた。これに対し、直方市史編さんにたずさわった行実正利氏は、旧明神町にあった「入口屋」に比定している。ちなみに、神正・大正の両町は、戦後地名統合して神正町となった。
  行実氏によれば、「入口屋」は旧明神町にあった木賃宿で、主人は馬車引きを兼業していた。宿の入口横に馬をつなぐ場所があり、馬の姿が道筋からもよく見えたため「馬屋」で通るようになった、という。現在の神正町9-47である。現地には当時の建物も残っておらず決定の決め手はないが、両者はおなじ通りに七○メートルほどの距離をおいた位置にある。馬屋がいずれの位置であったとしても、芙美子が記す「大正町」でないことは確かである。
 
 
  八月になると「ほうろく(培熔)のやうに暑い直方の町角に、カチュウシャの絵看板が立つやうになった」
  大正三年 (一九一四)、東京芸術座公演「復活」の劇中歌として松井須磨子が歌った「カチューシャの唄」は、レコード化されて爆発的な流行となった。翌年には日活が映画化し、これも大ヒットした。芙美子がみた「カチュウシャの絵看板」は、この映画の看板をさすようだ。

   釜の底のやうな直方の町に
   可愛やカチューシャの唄が流行って来た
   炭鉱の坑夫達や
   トロッコを押す女房連まで
   可憐な此唄を愛していた
  (詩集『蒼馬を見たり』昭和4)

「私は活動 (=活動写真)を見て来ると、非常にロマンチックになってしまった。浮かれ節 (=浪花節)より他芝居に連れて行ってもらへなかった私がたった一人で隠れて、カチュウシャの活動を見に行ったのである」
  当時、須崎町をぬけて右にまがると、正面には明治四十三年に新築移設された直方駅があり、手前右側には活動写真館「開月館」があった。大正三年に落成したばかりの洋風二階建て建築で、駅前の新開地に偉容を誇っていた。
  映画をみては木賃宿で「髪を二つに分けてカチューシャの髪を結んでみた」芙美子だったが、このころ「小学校へ行くかわりに須崎町の粟おこし工場に、日給二十三銭で」一ヶ月ほど通い、その後扇子を売り歩き、涼しくなると「一つ一銭のアンパンを売り歩くようになった」という。今日、芙美子忌でアンパンがふるまわれるゆえんでもある。「小学校を蹴とばしてしまった」十二歳の少女は「遊ばせてはモッタイナイ年頃」になっていた。

粟おこし工場と飴売りの少女

 「粟おこし工場」が須崎町にあったとすれば、木賃宿とはおなじ町内またはその隣接地である。すぐちかくの町工場に働きに出たことは、とくに不都合はない。芙美子はそこに通ったのだろうか。そこで大正初期にこの付近で粟おこしを作ったという町工場を探してみたが、確認できなかった。
  やや時代が下るが、当時の商工名鑑ともいうべき資料では、須崎町に明治四十二年創業の栗原義太郎という水飴製造業者が見える(『大日本商工録』昭和5)が、粟おこし製造とはむすびつかないようである。したがって、今のところ芙美子が働いたという須崎町に粟おこし工場は確認できない。
  一方、そのころ市街地南部の新町に藤田本店という飴菓子屋があった。主人の藤田安次郎は筑前南部の朝倉郡甘木町 (現・朝倉市 )出身。明治のおわりころ直方に移住し、その後町なかで手広く粟おこしや朝鮮飴類の製造・卸をしていた。
  この時期、石炭景気で急速に成長する直方をめざして、各地から移住・進出した商人・業者は数多く、藤田安次郎もその一人であった。
店は家族のほかに数人の使用人をやとって飴つくりをしていた。ここに周辺の地域から中卸(なかおろし)という仲介業者が通って来て、製品を仕入れてはそれぞれの小売店に卸していた。
  このとき、出入りする大勢の大人にまじって、朝鮮飴を仕入れに来る十二、三歳の少女がいた。藤田光枝さん (明治十九年生)の記憶では、少女は目つきのするどい子で、仕入れた朝鮮飴は新町から歩いて十分たらずの通称二字町の高台にあった遊郭で売り歩いていた、という。
  当時の直方遊郭は、遠賀川流域では唯一地方遊郭の指定をうけた「公認遊郭」で、近隣にならびない規模で知られていた。郭内には娼妓の教養育成施設「心華女学校」や県立の病院設備もあり、大正時代の全盛期には妓楼十四、娼妓は仲居をふくめ二百三十名に達していた。 (「直方市史」下巻 昭和53)
  飴の卸屋のような職場に、いたいけな少女が現れれば、周囲から大切にとまではゆかなくても、それなりの扱いを受けた、と話は展開しそうだが、実際は性格のきつい娘で手癖にも問題があり、飴職人のあいだの評判はすこぶる悪かった、という。後年、藤田家を訪ねてきたかつての飴職人の話では「仲間うちでは、今度来たらぶん殴ってやろうか」と相談していた、というから、両者の関係はかなり険悪であったようだ。
  この少女について、後年、光枝さんは、店にやってきた時期といい年格好といい「あの子は林芙美子ではなかったか」と回顧していた。戟後の昭和三十九年、芙美子の『うず潮』、『放浪記』が NHKの連続テレビ小説で放映されたとき、話を聞きつけた新聞社が取材に来たが、「そのような内容では記事に書きにくい」と困っていた、という。
  芙美子が朝鮮飴を売り歩いた話は、確証はないが、状況からは「あるいは」と思わせる話である。

『放浪記』の虚と実

 ここにいたって、『放浪記』が描くいくつかが、事実とはことなることに気づく。
  たとえば、秋口に芙美子の母は多賀神社そばでバナナを売っていたとある。「無数に駅からなだれてくる」坑夫の群のおかげでよく売れたというが、当時、坑夫たちは駅まで汽車通勤をしていたのだろうか。駅から徒歩で多賀神社そばを通って通う炭鉱だが、これも一定規模のものは周辺に見あたらない。当時坑夫が通ったのはおもに三菱新入炭鉱であり、これには直方の町から須崎・明神町を通過する道すじである。多賀神社とは反対方向にあたる。明神町に花街ができたのも、彼らの需要に応じたものだった。
  多賀神社についても「多賀さんの祭りには、きまって雨が降る」とあるが、これは春祭のジンクスであって、秋ではない。芙美子は実体験ではなく、誰かから聞いた知識をここに挿入したようだ。
  木賃宿「馬屋」は実在したらしいが、その場所は大正町でなかった。須崎・明神町は江戸時代以来の旧道で、細い道ぞいに軒の低い店がならんでいた。一方、大正町はその名のとおり、あらたに開かれた大通りであった。宿のロケーションとして、芙美子に多少の作為がなかったとはいえない。
  これとよく似た話は、 一家の尾道転居のいきさつにもみられる .大正五年 (一九一六)に一家はながい行商のあと、尾道に定着したが、このときは車窓から
  「きれいな町じゃ」
  「おりてみんかやのう」
と、思いつき同然で下車したと書いている。 (「風琴と魚の町」 )
  しかし芙美子の尾道時代にくわしい清水英子氏は、これは山陽本線下りならありうるが、下関方面から来たばあい、「きれいな町じゃ」など観察している間はないという。「おりてみんかやのう」は芙美子の創作で、一家は計画的に九州を引き揚げ、旅先で知り合った尾道の商人大林亀助のつてで尾道に落ち着いたのでは、と推測している。 (『林芙美子・ゆきゆきて「放浪記」』平成10)
  このように見てくれば、芙美子のいう「須崎町の粟おこし工場に、日給二十三銭で」通ったというのも、あらためて疑わしくなる。新町の藤田飴屋で仕入れ、ちかくの遊郭で朝鮮飴を売ったことを、のちにアンパン売りとからめて改変したのではうという気がするのだが 、確証がつかめない。しかし、藤田飴屋の「粟おこし」と須崎町の「粟おこし工場」の符合は本当に偶然だろうか。

 その後の大正八年(一九一九)市立尾道高等女学校二年生 (十六歳)になった芙美子はふたたび直方をたずねている。女学校の同級生津山カツ母子との三人で旅行したとき、途中ふたりと別れて直方に行ったとの証言がある。
  このとき尾道高女時代の親友木曽季野にあてた葉書には、海水浴姿のふたりの少女 (津山と芙美子か )の絵とともに「八月七日、福岡県直方に於て」とある。
   このとき、芙美子は実父の宮田麻太郎に会いに行ったと考えられている。麻太郎は芙美子の母キクと別れたときは若松で商いをしていたが、この当時は直方に住んでいたらしく、大正十四年の弟隆二の分家届けも直方で提出している。また麻太郎は芙美子に経済的な援助をしていたようで、彼女が当時の高等教育に属する女学校に通えたのも、これによるとの証言もある (中原雅夫『林芙美子と下関』昭和42)
これらをふまえて、「この十六歳ときの直方行きが、芙美子にこの町での記憶をよみがえらせ、「放浪記以前」で直方時代が精彩をもって綴られる機縁となったのではあるまいか」という足立巻一氏の指摘は示唆に富んいる。
直方は芙美子にとって、他の多くの一過性の町とはことなり、重層的な思い出がある特別な場所ではなかったろうか。

 以下は蛇足になるが、
  明治の歴史家・久米邦武は、文学作品を安易に歴史研究につかうことを憂慮し、「太平記は史学に益なし」と警鐘を鳴らしている。中世の戟乱を措いた太平記はたしかにその時代を活写しているが、あくまでも文学作品である。いかに歴史的なことを語っていようとも、「歴史そのまま」でないのは自明なことだ。
  林芙美子の『放浪記』についても、情況はおなじである。芙美子は自身が放浪した各地での体験をもとにひとつの世界を構築し、これを読者に示した。したがって登場する人や場所は '実在の地名を冠していても、あくまで作品中の人物であり場所なのだ。そのことを踏まえて、フィクションの向こう側に歴史の実態を求めるのもひとつの読み方ではあるのだが。


   芙美子忌へ人吐く駅のさみだるる 加寸美

うしじまえいしゅん・福岡県文化財保護指導委員。福岡県直方市在住